母の癌を治す

今癌で不安な人達やご家族に、何か伝えられる事があるかもしれないと思い、書きはじめました。

母の変化

告知から三カ月、引っ越しのバタバタもようやくおさまり、母の体調もすっかり良くなっていた。

私が新しい家でとても気にしていたのが睡眠だ。母は寝つきが悪く眠りが浅い。一緒に住む前は23時就寝だったし睡眠導入剤を飲んでいた。うさぎを飼っているのだが、うさぎは母と同じ部屋にいて、夜行性なので夜中動いて何度も母を起こしてしまうそうだ。部屋は余ってるので二階で寝てみては?と言って、何回かチャレンジしたが寝心地が悪く余計寝れないと言っていた。新しい家ではまずうさぎはリビングに、母は二階奥の和室を部屋にした。ベッドマットレスも病院と同じ物だし良く寝れるはずだ。睡眠導入剤もやめてもらい、21時には寝るようにと言った。新居では本人も驚く程夜中起きなくなった。

毎朝30分でいいからと父と散歩にいってもらっている。下痢気味だった事もあり30分の散歩の中でトイレにいったり一休みしたりしていたが、今引っ越して一カ月半だが、トイレにも寄らずすいすい歩ける様になった。今は朝6時に起きて40〜50分散歩にいっている。筋肉は動かさないとどんどん落ちる。3週間の入院で筋肉がごっそり落ちてしまったが、今は大分体力もついてきた。やはり適度な運動は必要なのだなと思った。はじめは、よいしょよいしょと、やっと登っていた階段が今は普通に登れている。母の部屋を一階にするか二階にするか悩んでいたが、二階にして正解だった。否が応でも階段を使うので筋力がついたのだ。雨の日等「今日は一歩も出てないのに足が筋肉痛だ」と言っていた。洗濯を干したりと逆に階段の上り下りをいつもよりしていたからだ。私も引っ越しの時は暫く脹脛が筋肉痛だった。結婚してから階段を使う事があまりなかったので地味に良い運動だと思った。

退院してから2週間程たった時、白目から黄疸が引いている事に気付いた。次の血液検査では黄疸の数字が正常値になるだろうと確信した。

体重が13キロ程落ちた。とはいえ以前は太めだったのでガリガリまではいかない。細い人という位だ。玄米菜食にすると大抵13〜15キロ落ちると色んな文献で読んだが、本当に落ちた。そして45キロでとまっている。落ちるとこまで落ちたかな??年内このままで来年に入ったら2〜3キロ増え、48キロ位でとまると理想だ。

そして私の1番の驚きは口臭が消えた事だ。母はずっと喫煙者だったので、ヤニなのか、申し訳ないけどとにかく口臭があった。癌が発覚してタバコはやめてもらったが、野菜ジュースのデトックス効果なのか以前とは違った匂いの口臭があり(この時が今までで1番酷かった)、そして新居にきた母はすっかり口臭もなくなっていた。体内に入る食事が違うとこんなにも効果がでるのか、と改めて感じた。

 

G会

入院中は暇そーだったので本の差し入れをよくした。母の癌を知ってから私はとにかく癌について調べまくった。本もたくさん買った。その中でも自然治癒という主に食事療法で治った人の本を持っていった。今母が実践している事だ。私から聞くより実際体験した人の話を自分で読んで理解する方がずっとやる気になると思ったからだ。凹んだ時はとにかく治った人の本を読むに限る!あと、自分が実践している事が何冊もの本に書いてあると、間違ってないという自信にも繋がると思った。

本やネットで調べているうちに気になるNPO法人の団体がいくつかあった。距離が遠い所は通い辛いので、関東圏でみつけた所に行ってみる事にした。同じ不安を抱えた方や、何より治った人の話を直に聞けるというのは母にとってとても勇気付けられると思ったからだ。

G会のセミナーに行く前日、病院の検診があった。久しぶりに癌の検診である。f:id:emi_koko511:20161003181020j:imageなんと、あらゆる数字がよくなっていた!!!食事療法や生活改善で血液が入れ替わるまで三ヶ月という文献をみたが、まさに始めて三ヶ月たった時だった。腫瘍マーカも少し下がっていてこれには皆で万歳という感じだった!N先生(現主治医)は「黄疸が良くなったから少し下がっただけ」と言っていて確かにそうなのだが、それでも久々の腫瘍マーカの数字に安堵した。一気に千単位や万単位になったら、もしかしたら転移もあるかもしれないからだ。そもそもA癌センターでみた時より少し下がっている。最悪の事態は回避できたと思った。M先生は「死滅した癌細胞は血液にのり身体中を巡り、そして尿として排出される。だから一度は必ず腫瘍マーカの数字は高くなる。」といっていた。腫瘍マーカの数字で一喜一憂してはいけない事も承知だが、他の数字もよくなっているし、嬉しくて涙がでた。

翌9月7日、私は母と2人でG会のセミナーに参加した。セミナーは10人弱の人がいた。患者さんの場合もあれば、妻が癌で・・という身内の方もいた。当たり前だか皆深刻な面持ちで空気にも緊張感があった。母は余命宣告もされてるし膵臓癌の晩期という事で、多分この中だと1番深刻な状況じゃないかとは思うが、昨日の血液検査の結果もあり、かなり明るかったと思う。セミナーでお話ししてくれたのはKさんで、大抵の事は実践している事だった。セミナー後も質問にとても親身に丁寧に教えてくれた。母はその場で入会し、週末には合宿へ参加した。合宿には九州や大阪や色んな所から参加していて、皆物凄くやる気だったらしい。病院では手の施し用がないと言われた人や西洋医学の治療法は受けたくない、という人達の集まりなので当たり前だとは思うが。G会では温灸や生姜湿布をすすめられたがM先生がやってはダメというので、母はイマイチ全力で取り組めない感じだった。要はそれらは体を温め血液をデトックスし、血流をよくする為のものなので、M先生の所に週二回通っている母はそこはやらなくても大丈夫!という結論になった。1番ぶれていけないのはM先生なので、M先生の施術に支障が出る事はしたくなかった。しかし治った人の話は勇気付けられるので講演会等にはいってみようと思う。

 

退院

管をつけた翌日お見舞いにいくと、あの真っ黒だった管が薄黄色になっていた!この時はじめて透明の管を付けていたと判明した。母はみるみる回復したが、結局三週間程入院していた。実家の引っ越しには当然間に合わず、親族が手伝いに駆けつけてくれた。父は"こんな大変な思いをした事がない"と言っていた。大変だったしお疲れ様という気持ちだが、逆に言えばとても幸せな人生だったのだなと思った。

母はお腹から管を出しているので胆汁袋を常に持ち歩くという生活になる。邪魔だがお風呂も入れるし日常生活にさほど支障はないらしい。母が「温泉が入れなくなっちゃうな」と言ったので、「温泉付きの客室か、貸切風呂に入れば良いよ」と答えた。胆汁袋問題がでた!胆汁袋は常に心臓?より下になければいけないので寝る時はベッドでなければならない。私は急いでベッドを探した。「病院のマットがずーーっと寝てても腰が痛くならないので同じ物がほしい!」というので同じ物を購入した。ルフランというマットレスだ。今後ベッドの上で過ごす事が多くなるかもしれないという事も考えて欲しいと言ったのだろうかと思い、少し切なくなった。本人に聞いていないのであくまで予想だが・・。そして8月15日、何と一時帰宅が許された。母はとても嬉しそうだった。母の部屋が片付いていたのにも喜んだ。因みにこの時の血液検査がこちら。f:id:emi_koko511:20160929221745j:image黄疸の数値がグッと下がった。安定してきたので、すぐステントの再手術をする事になった。今度はプラスチックではなく金属だ。金属は一度入れるととれなくなるので如何なものかと思ったが、もし癌が進行したり、体力も奪われたらステントを入れる手術自体出来なくなる。今まだ大丈夫なうちに丈夫な金属を入れた方がよいという判断だった。因みにプラスチックの場合半年に一度取り替えが必要で、先生には"取り替えるまでもたないだろう"と私にだけ告げられていた。手術はやはり30分程で終わった。次の日は気持ち悪さがあるといっていたがすぐ治った。又何日か禁食で、その後少しずつ消化によい食事が出た。トータルどれ位絶食していただろうか、かなり食べていない割に今回の入院では2キロも落ちなかった。告知から一カ月半程は気も沈んで食欲わかないし、摂取するものも野菜ジュースメインにしていたので一気に体重が10キロ程落ちた。予想はしていたがこんなに急に落ちるととても心配だ。ようやく止まってきたみたいでホッとした。

そして8月22日遂に退院した。

f:id:emi_koko511:20160930090257p:image黄疸の数値が驚く程おち、肝臓の数値も落ちついてきた。驚いた事に何とお腹の管を抜いての退院だった。急いでベッドかったのに・・・!三週間の入院で母は筋肉が落ちてしまったらしく、二階に上がるのも"よいしょ"という感じだった。しかし食欲はあった!病院では食べなかった生野菜を食べたせいか、3日程下して大変そうだった。退院した時は肌の黄色さは殆どとれ、白目だけ薄黄色が残っていた。

黄疸がとれた母はとても元気で、"癌が治った気がする"といっていた。顔が黄色いと誰にも見せたくないので外出する時はずっとマスクだし、気持ち的にもとても辛かったと思う。病院でシャンプーをした時は頭皮も黄色くて実は衝撃をうけていた。勿論よくなるまでは母には内緒にしたが、退院する頃には驚く程黄色さは消えていた。母には常に「よくなっている事」のみを伝えた。気持ちがとても左右する病気なので、とにかく気持ちを元気にさせたかった。

 

ステント手術

26日に入院して血液検査をやったら、やはり21日にきた時より黄疸の数字や肝臓の数値や、その他も全体的に悪くなっていたf:id:emi_koko511:20160926081600j:image

翌27日の手術はメスを使わないもので30分程で終わった。寝て起きたら終わっていた、と言っていた。手術の時胆汁も随分出たし、このまま何も起きなかったら週末には退院できると先生から聞いた。ステントはプラスチックのものを膵臓を囲うようにぐるっと7cm程いれた。

私が病院にいた時は何もなかったのだが夜中吐き気と痛みがきたらしい。点滴に痛み止めを入れておさまったみたいだが、次の日は安静という事で飲食全て禁止になった。退院も少し伸びた。手術で胆汁が出たからか少し数字がよくなった。f:id:emi_koko511:20160926083452j:image

そこまで数字は下がらないまま、しかし安定しているので8月1日母は退院した。8月9日に引っ越しを控えているので早く帰りたかったらしい。私はM先生の治療を一週間受けれなかった事にひやひやしていた。

母は退院したものの、元気だったのはその日だけで、退院帰りに姉とランチでお蕎麦を食べたせいか、夜激痛にみまわれた。次の日実家に私がいった時には吐き気とだるさで寝込んでいた。M先生の治療は父が付き添い何とか一度いき、その場は少しおさまるが、夜には又気持ち悪さがでる。病院に連絡した方がよいのではと言っても、引っ越すまでは・・と。この時が1番辛かったと思う。水を飲んでも吐いてしまうので何も口にいれたくないといったので、さすがにやばいと思い、引っ越しはいーからと、とにかくK病院に行ってもらった。8月6日、私の引っ越し日である。

f:id:emi_koko511:20160927011738p:imageステントから全然胆汁が出ていない事がわかりすぐ手術になった。出来るだけ早く私も駆けつけたかったが、引っ越し途中で父から「もー手術終わった」と電話があった。管をお腹から通しそこから胆汁を出すという手術だ。ステントと併用して装着する人が多いらしい。真っ黒い管がついたんだ、と思う位ドロドロで黒い胆汁だった。これは危なかったですと看護師さんに言われた。私より一足早く姉と姉の旦那さんが駆けつけた。そしてなんとその夜破水し、実家近くにある産婦人科へ行き、朝には出産していた!高齢出産の初産なのに6〜7時間で産まれるなんて、とても親孝行なベイビーだ。産んですぐ母に伝えたらしい。母はとてもとても喜んだ。

 

 

K病院

A癌センターで告げられた二週間を過ぎても母は元気だった。I先生に言われてからというもの、毎朝黄疸が出てないかチェックしていたらしい。しかし喜んだのも束の間、三週間目に入った7月12日、うっすら黄色くなり、吐き気が出てきた。

遂にきたか・・!?

H癌センターのセカンドオピニオンの予約まであと10日程という所だった。丁度M先生が海外にいっている時で、慌ててO先生(M先生のお弟子さん)に連絡をとった。O先生は何とか他の方の時間をずらし母をみてくれる事になった。M先生からO先生に国際電話で、肝臓をほぐすようにと連絡してくれた様だ。私と姉がつき添う中、O先生に施術してもらった。あんなに具合悪そうだった母は1時間半後にはすっかり気持ち悪さもとれ、"お腹すいたわ"と言い出した。本当に凄い。姉も母の変わり様を目の当たりにして、新気功という治療法に納得した様子だった。先生は胆管が潰れたから黄疸が出たのではなく肝臓が悪いからと言っていた。

考えてみれば2月の人間ドックで肝臓の数値が悪く再検査していた。異常なしと判断されたが・・。

しかしその場はよくなったものの、やはり黄色いのが心配でK病院に電話をしてみた。母の状況と、抗ガン剤はやりたくないが黄疸が出ているかもしれないので、ステントを入れる手術だけしてほしいと。K病院の電話に出た方は、とにかく診てみない事には何ともいえない、すぐ受診して下さいと言われた。

私達は話し合いの上、H癌センターの予約をキャンセルし、K病院にいってみる事にした。7月21日の事である。

K病院で検査してもらった結果やはり、ビリルビンの数値が高く黄疸が出ている、癌も少し大きくなっている、転移はなし、との事だった。抗ガン剤をやりたくないという事を受け入れてくれ、しかしステントを入れる手術はした方がよいと言われた。とても有難い話で、7月26日に入院して翌27日に手術する事になった。入院の説明を父と母が聞いている間、私は先生に呼ばれ再度診察室に入った。先生にはとても厳しい状況だと言われた。今は何の症状もないかもしれないが、恐らくすぐ痛みが出て、そしたらその後は早いと。抗ガン剤をやらないなら緩和ケアを考えた方がよいと。西洋医学の先生に東洋医学を話すと嫌な顔をされるので、先生には気功の事は話さない事にした。つまり先生は私達は何もしていないと思っているのだ。それは厳しいと思うのは当然だと思う。先生に何を言われるか想像していたが、やはり告知は何度言われてもとても辛く、慣れない。姉は臨月という事でこの日はこなくて良いと言ったが、1人で聞くのは怖く、姉がいてくれたら、と思った。因みに母には私が呼ばれた事は今でも話していない。母が完治したら話そうと思う。

 

 

H癌センター

6月26日再度A癌センターにいった。I先生に同居の話をし、H癌センターで陽子線の話を聞きたいので紹介状をお願いした。I先生は癌を治す事に前向きになっているので良かったと、快く紹介状を書いてくれた。(私達はずっと前向きなのだが、抗ガン剤を拒否する母を、もう諦めていると思っている様子だった)もしH癌センターがダメだったらいつでもこちらはウェルカムなので戻ってきて下さい。と、言って下さった。この発言は私達に安堵感を与えた。もしH癌センターにいき、打つ手なしといわれ、I先生のいう様に黄疸がすぐ出てしまったら、その時どこにいけばいいのだ、と思っていたからだ。もしH癌センターでダメといわれてもA癌センターで黄疸の手術をやってもらえる。ただしA癌センターにいく時は、抗ガン剤と手術も取り組まなければならない。どこかで黄疸の手術だけやってくれる所があればいいのに・・。M先生は膵臓癌が押して胆管が潰れるなんてあるだろうか、といっていた。

紹介状を書いてもらい一旦持ち帰った。

H癌センターには相談室の様な所がある。セカンドオピニオンの予約をとる前に一旦そちらに電話をした。

聞く所によると、いきなり陽子線をやる方は少ないという。膵臓癌はまず手術、手術がダメなら抗ガン剤、それも出来ない人が陽子線という順らしい。しかし陽子線も出来る人と難しい人がいて、母の状況だと難しいだろうと言われた。

M先生は陽子線も反対している。抗ガン剤よりは良いが、結局細胞を焼くという事なので先生が硬い癌細胞をはがしても焼かれた物が壁となって流せなくなる。はがした癌細胞は尿として排泄する。因みに癌細胞は死んで散らばるので一時は腫瘍マーカは上がるらしい。母の身体は至る所がカチコチで血が通っていないので、まず全身の血の巡りをよくしなければならない。通ってないから押さえられても痛くないらしい。(後に首から肩にかけて針で刺される様に痛くなり、二週間程で治った。"最近ここが痛くて"と話したら、"良かったじゃないですか、血が通ってきた証拠です"と言われたらしい)膵臓にほぼ手をあてないので母は不安がっていたが、まずは膵臓より全身のコリをほぐさないといけない。柔らかくして血の巡りをよくする治療法をとったのに陽子線で焼いては意味ないとなると、私達はどーしてよいかわからなくなった。"もうすぐ黄疸も出て、痛くなり、手の施し様がなくなる"といわれているので、私も母も姉も何かしないと落ちつかない。

H病院で予約をとったものの、このまま行ってよいのだろうか・・陽子線をやらないなら行く意味もないと思った。このままでは先は短いと言われるだけだ。電話相談で、因みに抗ガン剤も手術も陽子線もやらないが、経過観察と黄疸の手術だけやってもらえたりしないか聞いてみたが、「先生によってはやってくれる人もいるかもしれませんが、治療しないなら経過観察だけというのは基本やりません。」と言われた。

M先生は絶対治せると自信を持っていて、大丈夫!と何度もいってくれる。

私はM先生を信じたい。

しかし黄疸が出た時の手術と経過観察をやってくれる主治医がいないという事はかなり不安である。

そーしてあちこち走り回ってからぶり感が強いが、みつけたのがK病院だ。

 

同居

実は五月末、M病院にいった夜旦那さんに

「両親と同居したいと思ってる」

と打ち明けた。近くにいれば色々出来るし、父だけでは母は不安だと思うし、まだ結婚して2年なのでもう少し2人でいたいという気持ちもあるが、今すぐ動かなければ後悔すると思った。母に出来る事は何でもしたかった。旦那さんは

「そういうかなと思った」

と、嫌な顔1つせず受け入れてくれた。要はますおさんになるわけで、しかも母は重病で、今後の彼の負担は測り知れない。それはとても大きな決断だったと思う。彼ならそう言ってくれると思っていたが、それでも渋い顔をされたらどうしよう、別居でやっていけるだろうか、等悪い方も考えていた。彼が旦那さんで本当に良かった。彼を大切にしなければと思った。

実は父も2月に膀胱癌が初期で発見されて、手術をしていた。両親共にほぼ同じ時期に発覚するとは、やはり癌は生活習慣病なんだなと思った。父はすっかりよくなったが、さすがに74才だし、仕事はもうやめよう、と7月に退社する事になった。父の職場の事を考えなくても良いので、私の職場と旦那さんの職場の間で家を探す事になった。

一軒家で広さと家賃、駅までの距離等を考えるとなかなか難しい・・。たまにすごく良い物件も出てくるが内見にいく前にとられてしまう。

そして決まったのがK市だ。K市といえば陽子線のあるH癌センターがある所だ。

K市に母と2人で内見にいって(旦那さんは仕事)、その場で仮押さえして、その帰りに喫茶店で母に陽子線の話をした。

すると、物凄いビックリしたのだが、昨夜父がこんな紙を出してきた、と、陽子線をやっている病院の資料を出してきた。なんというタイミングだろう。父は携帯もパソコンもあまり使わないので、何も調べる事が出来なかったが、それでも何か方法はないかと会社の人に調べてもらったらしい。父は昭和の人で、母が何でも父の事をやっていたので、1人では何も出来ないと思っていた。その父が母の為に動いたという事が嬉しかった。

引っ越し先を探し、やっと決まったK市にはH癌センターや、他にも大きな病院がいくつかある。

もし手術をするにしてもA癌センターは遠すぎる。H癌センターや他の大きな病院も新居から車で20分の距離だ。近場に病院があるのはやはり安心だし、A癌センターはやめてこちらに紹介状を書いてもらおう、となった。